「人の想像を超えるキリスト」10.11.14
マルコ3:20〜30
主イエスの評判を聞いてたくさんの人が集まってきました。主の神の子としてのお力にすがるようにして集ってきた群集を、
主は憐れみ癒されます。食事をする暇もないほどに、熱心にそれをなさいました。しかし、そこには主イエスのことを
まったく理解できない人たちもいました。身内である家族は、気が変になっているとの噂を聞いて、主を故郷に連れ
帰ろうとしました。ユダヤ人指導者たちは、主の力を、悪霊の頭の力だと思いました。彼らは主の力ある業を見ていたのに、
主にすがる群衆のように主を受け入れることはできませんでした。主を上から見おろすようにしていたからでしょう。
主の前に謙遜になって、聞こうとする心から、主と共にある生き方が始まります。
律法学者たちは、主イエスが悪霊の頭に取りつかれていると言って非難しました。それをきっかけにして、主はたとえ
を話されました。「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。
まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(27節)人を家にたとえ、人こそ何かに取りつかれているとおっしゃいます。
人が支配されている現実を見抜いておられます。何に支配されているのでしょう。「わたしが望まないことをしているとすれば、
それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:20)とあるように、人の中には
罪が住み、人は罪に支配されています。主は、その家に住む強い人(罪)を縛り上げ、その家(人)に押し入り、略奪するという、
激しい言葉を使ってたとえ話を語られました。そこには、罪を追い出して、人をご自分のものにしたいという強い願いが込め
られています。また、そのためにご自分の十字架の死を伴う、罪との激しい戦いをする覚悟が込められています。主イエスが
私たちの心に宿ってくださり、共にいてくださるという恵みは、のんびりしたものではなく、主の命を賭した激しい戦いによって
与えられる大きな恵みであります。