「主がおられるのに知らなかった」10.10.17
創世記28:10〜22
ヤコブは、父イサクから神の祝福を受け継いだ人です。そのような彼の生涯は、実に波乱万丈の生涯でした。
自分の生涯を振り返った時に「苦しみ多く…」と言います。彼の生涯は、誰もが羨むような生涯ではありません
でした。けれども、彼の生涯には、私たちが求める神の祝福が確かにあります。
ヤコブは、ハランという場所に向かって旅をしていました。兄エサウに命を狙われていたからです。エサウは、
自分が受けるべきであった長男の権利や神の祝福を、ヤコブが奪い取ったことに腹を立てていました。
次男のヤコブは、本来はそれを手にすることはできませんでしたが、それが欲しくて仕方がありませんでした。
彼は、神の祝福を手に入れれば、自分の願いが叶えられ、望みのものを手に入れられると考えたのかもしれません。
そこで、兄のすきを突き、また父を騙して、強引な仕方でそれを自分のものとしたのでした。そうまでして祝福を手に
入れたのですが、結局は命を狙われ、逃亡生活をすることになったのです。それは、予想外のことだったでしょう。
祝福を手に入れたのに、現実は自分の願っていた状況とは違いました。
家族から離れ、ひとり旅をしながら、夜、荒れ野で石を枕に野宿をするヤコブは、惨めな気分だったでしょう。兄や
父に対する罪深さも感じたことでしょう。ところが、その夜、神の祝福を受けていることを経験します。それは自分の
願いが叶うこととは違いました。彼は、惨めで罪多い自分の所に、天から階段がのびてきているのを見ました。そして、
気がつくと、神が傍らにおられて「あなたと共にいる。見捨てない」と語りかけてくださいました。神の祝福を受けて
いる者とは、どんな時も神が共にいてくださる者のことでした。祝福を受けている者の所に、惨めさ、愚かさ、罪を
突き抜けて、天から階段が伸びてくるのです。ヤコブは、「主が私の所におられる!」との驚きを味わいました。
私たちも、そのような驚きの言葉を口にしながら、神と共に生きる者としていただいています。