「キリストが横たわる飼い葉おけ」10.07.25
ヨハネ 5:39〜40
聖書は、神が与えてくださった贈り物です。自然に出来上がったものではなく、イエス・キリストを証しするものとして、
神が聖霊の導きによって生み出してくださったものです。ですから、歴史、文学、人生訓を求めて読むよりも、
キリストを見出そうとして読む時にこそ、本来の聖書として、神の御言葉としての力を発揮します。
「キリスト(メシア)」という言葉には、「預言者」、「大祭司」、「王」の意味が込められています。
「預言者」は、神の言葉を人に届ける働きをします。主イエスは神と共にあった言として(ヨハネ1章)、直接的に
神の言葉を届ける真の預言者です。罪を指摘し悔い改めを迫る言葉や、慰め励ます言葉を届けます。主イエスが、
何よりも届けたかった神の言葉は、十字架によって明らかにされていることです。十字架にかかり人の罪を担った
主イエスは、神に見捨てられて死にます。罪に対する裁きの厳しさです。同時に、裁きの厳しさを突き破り、
主イエスを十字架にかけてまで人の罪を赦そうとされる神の愛が明らかにされます。
「大祭司」は、犠牲の動物を捧げて、人の罪を赦してもらう執り成しをしました。主イエスは、大祭司として執り成し
をなさいます。それも、完全な犠牲として神の御子であるご自分を捧げることによってです。それによって、罪の赦し
は完成されました(ヘブライ7章)。その大祭司によって、私たちは恐れることなく神に近づくことが出来るようになりました。
主イエスは「王」として、私たちを養い、支え、守り導く方です。しかも、異邦人や罪人さえ迎え入れる王として描かれています。
「あなたからゆだねられた人すべてに永遠の命を与えることができるのです」と神に祈っていますように(ヨハネ17:2)、
私たちを天国に迎え入れ、永遠に私たちの王であり続けてくださいます。神は、私たちがそのようなイエス・キリストに出合い、
救われることを願って、私たちに聖書を与えてくださったのです。