義と認められる」10.06.20
 創世記 15:1〜6
 
主イエスに救われた神の民として、永遠の救いという朽ちない冠を目指し、時に節制し、
時に自分を打ち叩くようにして、御国に向かって歩んで行きたいと願います(コリント一9:24-27等)。
そのような歩みが出来れば、救いの確信も揺らがないことでしょう。しかし、そのような歩みから
かけ離れた自分の姿に出会い、悲しい思いをすることがあります。やるべきことと分かっていても、
それができない。楽な方に流されてしまう怠惰さを、日常生活においてだけでなく、信仰生活に
おいても持っているからです。
 聖書に登場する人たちの多くは、揺るがない立派な人たちというより、迷う弱さを抱えている人たちです。
それは、人は迷ったままで良いということではありません。聖書は、そのような人に働きかけ、支え、
導こうとする神がおられ、その神があなたにも向いてくださっていると言うのです。自らの弱さに嘆くのでなく、
そのような神に信頼して、「迷っていても、神がいてくださるゆえに、ちゃんと目的地に着かせて
いただけるはずだ」と信じて、歩みをすすめるのが私たちの信仰生活でしょう。
 神の示す地に向かう旅に出発したアブラハムでしたが、その心は不安で揺れ動いていました。
神は、彼の不安を見抜いて「恐れるな」と語りかけてくださいました。神は、不安を抱えるものに
語りかける方です。私たちにも、聖書を通して必要な励ましの言葉を、必ず語りかけてくださいます。
 アブラハムは、抱えている不安を、神に訴えました。神はその訴えを途中で止めることをせず、
じっと聴かれます。そこで彼の心は、落ち着きを取り戻していきました。人には、じっと聴いて
くれる相手が必要です。神がその役を担ってくださいます。
 神は不安を抱えるアブラハムに寄り添い、共に星を見ました。彼は、神が不安を抱える自分を
愛してくださっていることに気づきました。神に愛されていることに気付く時、神を信じて進み出す
勇気が生まれます。