「キリストを迎え入れよう」10.05.09
マルコ 1:21〜28
主イエスは、汚れた霊にとりつかれた男と出会いました。神の国が近づいたことを宣べ伝え、
神の恵みの支配を受けて生きられることを告げる主イエスにとって、男を支配している汚れた
霊を許すことはできませんでした。主イエスは、その人への愛と、汚れた霊への怒りを込めて
「黙れ。この人から出て行け」とおっしゃいました。汚れた霊は出て行き、男は汚れた霊でなく
神の恵みの下で生きる者にされました。主イエスは、私たちが生きる場所を変えてくださいます。
汚れた霊は主イエスに向かって「かまわないでくれ」と言いました。そのように主イエスを拒む心が、
私たちにもあるのではないでしょうか。残念なことに、私たちには罪に支配され振り回される姿が
あります。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって
憎んでいることをするからです。…自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。…神の律法を
喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内に
ある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」
(ローマ7:15〜)そんな私たちに、主イエスは、神の支配の下で生きられるようにとの願いと、
愛と、憐れみの込められた言葉を向けてくださいます。「罪よ、この人から出て行け。」この主の
言葉に身を委ねていく時に、自分ではどうしようもできなかった、絡みつく罪が溶けていきます。
ものの見方が変えられ、神と人を愛する生き方が見えてきます。
自分の罪深さを見つめると「こんな自分は、神の恵みの支配を受けられない」と思えてきます。
けれども、十字架にかかられた主イエスは「わたしが十字架で血を流し、あなたの罪をすべて
取り除いた。だから、自分の救いを疑う心よ、出て行け」とおっしゃってくださいます。そのような
主イエスの言葉を向けられているのですから、自分の惨めさや罪深さを嘆くのでなく、主イエスに
変えていただいたことを感謝するのです。