「復活されたキリストが共に」10.04.11
 ルカ24:13〜35
 
クリスチャンは、復活なさった主イエスが、これまでの自分の人生に伴ってくださったこと、
そしてこれからも伴ってくださることを信じます。自分の人生を振り返ると、自分の足あとの
隣に主イエスの足あとがあったことに気付き、これからも決して孤独ではない人生を歩んで
いくことを信じます。聖書によって、主イエスが私たちに伴ってくださる方であること知らされて
いるからです。
 二人の弟子が、エルサレムからエマオの村に向かって歩いていました。二人は、主イエスが
死んでしまったので、望みを失っていました。心揺れ動く状態であったに違いありません。他の
弟子たちから離れていく姿は、弟子である気持ちが薄らいでいたことを象徴するようにも思えます。
そんな二人の所に、主イエスが近寄ってこられました。二人は、それが主イエスであると気付きません。
暗い顔をしながら、自分たちの失望を話します。主イエスから、「物分りが悪く、心が鈍い」と叱られる
ありさまでした。
 けれども、主イエスは、そんな弟子たちに伴って歩かれます。彼らの信仰を支えるように働きかけます。
聖書を語り、食事の席でも主イエスが中心となって働きかけておられます。そして、ようやく二人は、
復活された主イエスが共にいてくださることに気付きました。すると、主イエスのお姿が見えなくなりました。
「見えること」よりも、「共にいてくださることに気付くこと」の方が大切だということでしょう。
 主イエスは、不安をかかえ、うろたえ、主イエスのことさえ分からなくなり、心鈍く、物分りの悪い、
信仰の弱い者を放っておかれはしません。二人の弟子たちだけでなく、私たちのことも、放っておかれ
はしません。二人の弟子は「一緒のお泊まりください」と、主イエスを求めました。そうやって、求める私
たちの目を、主イエスは開いてくださいます。そして、自分が主イエスに伴っていただいて人生を進んで
いることに、気付かされるでありましょう。