「人間の誉れを求めません」10.03.07
 テサロニケ一 2:1〜12
 
神から、隣人を愛するようにと言われながら、それがなかなかできず、
人を愛することのできない自己中心の罪に気付き、悩まされることの
多い私たちです。
 そんな私たちは、今日の聖書の場面にある使徒パウロの姿に、心を揺り
動かされる気がします。パウロは、テサロニケの教会の人たちのためになら、
命さえ喜んで与えたいと願いました。人の救いのために心を注いでおり、自己
中心的な心はありません。しかも、威張るわけでなく謙遜でした。自分のプライドや
立場に縛られず、幼子のようになって人の救いに仕えました。母親が幼子に与える
ように慈しみの眼差しと時間と力と体を与え、時には、父親のように励まし慰めすす
めました。報酬を求めたわけでもありません。隣人の救いのために夢中になる、
まことの隣人愛の姿を見ます。
 使徒パウロだけでなく、キリスト教の歴史には、人の救いのために、献身的な働き
をした人物がたくさんいました(マザー・テレサなど)。そのような人を思い起こします時、
自分と違い素晴らしい人だから、特別な生き方ができたと考えるかもしれません。
確かに、神が与えてくださっている賜物は違いますから、誰もが同じような生き方を
するのではないでしょう。けれども、その人たちを、隣人愛に突き動かしたものは、
私たちの知らないものではありません。
 パウロは、クリスチャンを迫害する者でした。そんな自分を、神が認めてくださった
ことを忘れることができませんでした。神はこんな自分と和解し、新しいものとして
くださった。それは、主イエスの十字架による赦しと愛が、注がれることなしにはあり
えないことでした。彼は、その主イエスの愛に駆り立てられて、生きているのです。
そして、主の十字架によって救われているとの確信があるから、もう自分のことだけ
に夢中にならなくて良い。自分はキリストのものとされているのですから、自分のこと
は主イエスにお委ねして、人のために仕えることができたのです。私たちも、パウロと
同じ救いを与えられています。