「荒れ野に道が通される」10.02.21
 マルコ 1:1〜8
 
主なる神は、預言者イザヤを通して「荒れ野に道を備えよ」と告げました(イザヤ40:1-5)。
その時代、エルサレム神殿は戦争に敗れ、廃虚となっていました。それは、ただ戦争が
原因なのではなく、人々の神に対する背きの罪が原因でした。人の罪ゆえに、神は
エルサレムを立ち去りました。そこに廃虚が生まれました。人の罪は、荒れ野を生み
出しました。しかし、神は、もう一度エルサレムに戻ろうとされるのです。神殿を再建し、
神との交わりを回復し、再び神の栄光で満たそうとされるのです。そのために
エルサレムに進む道を備えるようにとおっしゃるのです。荒れ野をそのままにして
おかれないのが、主なる神です。
 そのような神にとって、エルサレムの神殿の回復よりもっと大切なことがありました。
それは、荒れ野となっている人間の回復です。人が罪によって本来の健やかさを失い、
荒れ野のようになってしまっている姿を、聖書は繰り返し描きます。愛を欠き、絶望し、
不安に縛られ、いらつき、諦めて何もできない、潤いなき荒れ野のような姿は、周りに
あふれていますし、自分自身にも見られることでしょう。神は、そのような人間を、
そのままにしておこうとはされません。愛するがゆえに、神との深い交わりに生きる
者として回復したいと思われます。荒れ野の心でなく、神殿の心にしようとされます。
そのために、主イエスがおいでになりました。主イエスが十字架にかかり、罪を取り
除いてくだいました。その主イエスを信じる者は、荒れ野のような人間から、礼拝する
神殿のような人間に回復していただくのです(コリント一6:19-20)。
 「主イエスをお迎えする道を整えなさい」と聖書は告げます。主イエスの方から、
私たちの方に歩み寄って来てくださいます。私たちは、自分の罪を認め、心を主イエス
に向け、お迎えすればよいのです。卑屈になることも、格好をつけることも必要ありません。
主イエスによって、私たちは潤いの地に、そして神殿に変えていただくのです。