「信仰によって生きる」10.01.31
ガラテヤ3:1〜14
私たちは、神に救われるための修行のような生活ではなく、神に救われた
感謝の生活をします。主イエスを救い主として信じてクリスチャンとなった
私たちは、すでに祝福されています(9節)。枚岡教会の礼拝堂のステンド
グラスの中段の画は信仰生活を表しており、そこに、大雨の中を進むノアの
箱舟の画があります。洗礼を受け、教会員になったということは、この舟に
乗りこんで、乗組員として生き始めたということです。この舟は、洪水という
罪人が滅ぶ水の上を通り過ぎて、救いに進む舟です。雨風で揺れることも
あるかもしれませんが、船に乗っている以上、安心してよいのです。
「信仰の人」と呼ばれるアブラハムは、突然、神から「あなたを祝福する」
との言葉を受けました。彼は、神から祝福されるのにふさわしい何かを持って
いたわけではありません。彼が特別な人であったとの伝説はありますが、
聖書はそれまでの彼の業績には何も触れませんし、良い人だったかどうかに
関心がありません。神が、一方的に祝福するとおっしゃいました。彼はそれを
そのまま信じて、神の言葉に従って生き始めました。神の言葉をまず信じた
ことが、彼が信仰の人と呼ばれるゆえんです。
ガラテヤの教会には、「物分りの悪い人たち」と叱責される人がいました。
それは、主イエスによる救いを信じることができずに、業績主義に心を奪われて
いた人たちです。人は、神のような愛(無償の、見返りを求めない愛)を持って
いませんから、因果応報の心に縛られます。主イエスを救い主と信じることだけ
救われることが、信じられないのです。ですから、神の愛に応えられない自分の
姿に気付きますと、そんな自分はもう神に愛されないと不安になります。けれど
も、それは、神の愛の大きさを見失っています。救われるのにふさわしいもの
を何も持っていなかった私たちが、ただ主イエスを信じたことで救われました。
それを感謝しながら、甘える事無く、また無力さに嘆く事無く、神に仕え神に
従う生活を続けていくのです。