「祈りながら」10.01.24
 エフェソ6:18〜20
 
信仰生活は、祈りながら進められていくものです。誘惑の多いこの世で生きる
私たちにとって、祈りは「神の武具」のひとつとして、身につけておくべきもの
です。私たちを誘惑しようとする悪魔は、私たちが祈ることを妨げたいのです。
悪魔は、祈りの力を知っているからです。悪魔が、主イエスの十字架を邪魔
するために誘惑をしたという伝説があります。ゲッセマネの園では「十字架と
いう杯を拒んだらどうだ」と誘惑し、十字架では「あんな奴らのために死ぬのは
止めたらどうだ」と誘惑しました。しかし、主イエスは祈りの中で誘惑を退け、
神の御心に従い、罪人を救う十字架の死を全うしていかれました。
 祈りは、全能の世界の創造主なる神と向き合い対話をすることです。私たちは
罪を抱えた小さな存在にすぎませんが、主イエスの十字架によって罪を取り除か
れたのですから、聖霊に導かれて、遠慮なく「父よ」と神に呼びかけることが
できます。この祈りは、人が祈りたいからするものではありません。神から、
祈るように求められているのが私たちです。聖書を通して、神は私たちに祈る
ように繰り返し語りかけてきます(テサロニケ一5:16-18)。祈りは、人が求める
からではなく、神が私たちにお求めになるから成り立ちます。神が私たちに祈る
ように求めるのは、私たちの祈りを聞くつもりがあるからです。それゆえに、
祈りが神に聞かれることを確信できます。ただし、それは私たちの願い通りに
なることとは違います。罪ある私たちの願い通りに事を進めさせたいのは、
悪魔の働きです。私たちの祈りをお聞きになる神は、ひとりひとりが神の御心
に従い、神と共に生きていくために必要な力を与え、御国に至る道を導き、
支えてくださいます。
 悪魔は、「罪あるあなたは祈る資格などないではないか」、「神は祈りを聞い
てくれないではないか」、「欲望のままに生きたらよいではないか」と囁きます。
しかし、神に向き合い祈りながら、誘惑を拒み、神の前での健やかな、
そして真実な歩みを続けるのです。