「神の約束」09.09.27
創世記17:1〜14
主なる神は、御心のままに人を選び、その人を祝福し、救いの中に入れることを
約束されます。主からの一方的とも言える約束を与えられた私たちは、
大きな幸いの中に身を置いています。
祝福の約束を与えられて歩む信仰の父アブラハムに、神はおっしゃいました。
「わたしに従って歩み、全き者となりなさい」と。「神に従う」とは、「神の顔の
前で歩む」ということであり、神のまなざしを感じて生きることです。私たちは、
周囲の人々や自分のまなざし、顔色を気にします。それも必要な時があります。
しかし、主の約束の中を歩むものは、何よりも、主のまなざしを意識します。
「全き者」というのは、何事においても完全な人間というより、何事をする時にも
主のまなざしを意識しているという意味です。
アブラハムのこれまでの歩みはどうであったしょう。神への信頼ではなく、
エジプトの権力者の顔色をうかがうことがありました(12章)。満天の星の下で
神から語りかけられるという深い信仰体験をしながらも、その信仰はすぐに
ぐらつき、人間的な企てに走りました(15-16章)。そのように、アブラハムの
歩みは揺れていました。しかし、それにもかかわらず、神の祝福の約束は
ぐらつきませんでした。
自分の熱心さや力によるだけでは、神の約束を信じて、神のまなざしを
感じながら生きていけない弱さを、すべての人間が抱えています。ですから、
神は、約束を与えられているのになお揺れ動く信仰の弱さを抱えている者を
支えようとして、時に迫り語りかけられます。また、この場面では、割礼という
契約のしるしを与えました。割礼は、人の神への応答であると同時に、
ぐらつかない神の約束を思い起こすものでもあります。
私たちは、キリストの割礼(コロサイ2:11-12)である洗礼を通して、救いの
約束に入れられていることを思い起こします。そこで、悔い改めつつ、
ぐらつかない救いの中に置かれている幸いを味わいます。神の慈しみに満ちた
まなざしを感じながら、歩みを進めます。