「真ん中に立つキリスト」09.07.19
今橋朗先生(日本聖書神学校校長)
申命記5:12〜15、ヨハネ20:19〜29
クリスチャンになると日曜日のすごし方が変わる。
日曜日は不思議な日。古く旧約の時代から、十戒によって、七日に一度は
安息日として休むように定められた。申命記では、安息日は恵みを思い起こして
休む日とされる。神が全力投球で働いてくださったのだから、安心して
休んでよい日である。
日曜日の夕方、礼拝をする者の所に復活された主イエスがおいでになり、
「平和があるように」と語りかけてくださった。彼らは、主イエスを歓迎する
準備をしていたのではなかった。ユダヤ人に対する恐れや様々の不安から、
自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。しかし、主イエスは、その戸を
突き抜けるようにして、彼らの真ん中に立ってくださる。
我々もキリストを拒み、神を拒もうして心の戸を閉ざすことがあるかもしれない。
心の戸が半開きでしかないときもある。けれども、礼拝に集う私たちの真ん中に
主イエスは来て立ち「平和があるように」と、はっきりと語りかけてくださっている。
その時、主イエスは、ご自分の手とわき腹をお見せになり、十字架の出来事を
お示しになった。十字架によって人の罪は許されていることをお示しになった。
それによって、「平和があるように」との言葉が真実の言葉として彼らの間に
響きわたった。
その日その場に居合わせなかった弟子のトマスは、他の弟子から主イエスの
話を聞いても、それを信じなかった。しかし、次の日曜日、トマスが他の弟子たち
と共に集っていた(礼拝)所に、再び主イエスがおいでになり、彼らの真ん中に
立たれた。そして、トマスにも「平和があるように」と語りかけてくださった。
「私は決して信じない」との不信仰告白をするトマスのような心が、私たちの
中にもある。しかし、日曜日ごとの礼拝で、主イエスが真ん中に立っておられる
ことを確認し、不信仰から信仰に変えられながら、また進んでいく。