「一緒に09.07.05
 エフェソ2:14〜22
 
教会では、家庭も立場も職業も趣味も嗜好も主義も性格も違う者たちが、
一つになって礼拝を守ります。枚岡教会だけでもそうですが、世界の教会を
考えますと、言葉も文化も政治的立場も民族も違う、何億という人々が
ひとつになって礼拝を守ります。とても不思議なことです。
 聖書の時代、ユダヤ人は神の民として歴史を重ねてきた自分たちと、
神を知らずに来た異邦人を区別していました。教会にも、ユダヤと異邦人が
いました。その間に、互いにギクシャクした関係があったようです。
それを乗り越えさせるのは、主イエスの十字架の出来事です。ですから、
聖書は主イエスの十字架に目を注ぐように語りかけます(15-18節)。
 主の十字架の前では、どんな人も等しくなります。主の十字架の福音は、
どんな人にも必要だからです。律法を知っているユダヤ人にも、十字架による
罪の赦しは大きな救いでした。神さまを知らずに遠く離れて生きてきた異邦人
にも、十字架の福音は必要です。また、主イエスご自身は、罪の赦しを必要と
する全ての人のために、ご自分の血を流されました。ユダヤ人のためだけ
ではなく、私たち日本人を含めた異邦人のためにもそうなさいました。
 「ひとつの霊に結ばれて」(18節)とありました。教会に集う者はみな、
主の霊を与えられている者たちです。聖霊を与えられているという点は、
ユダヤ人であろうと異邦人であろうと違いはありません。主の聖霊を
与えられているのは、その人を神ご自身が救いたいと願っておられるからです。
ですから、教会に集う人たちというのは、すでに神さまの愛が注がれている
人たちです。聖霊を受けているところに、違いを超えたひとつの姿があります。
 教会には、人間の目からすれば、さまざまな違いを持つ者が集っています。
それを、不協和音にすることもできますが、主の十字架のもとに身を置き、
聖霊の助けを求める時に、美しいハーモニーになります。