「隠れる人に向けられる声」09.06.28
 創世記3:6〜13
 
エデンの園で、神と人はとても良い関係にありました。神に愛され、守られ、
養われていました。人は神に深く信頼しながらすごしていました。しかし、
人は「善悪の知識の木から食べてはいけない」という、たった一つの
約束を破って、そこから追放されることになりました。神との約束を
守れない姿は、私たちすべての人間の姿です。
 善悪を知る知識は、人にとって必要だと考えますが、エデンの園では
必要ありませんでした。神が善悪を判断するのであって、神にお委ね
すべきものでした。しかし、木の実を食べ、エデンの園から追放された人間は、
神に代わってそれを判断しなくてはなりません。過ちを犯すこと多く、
事柄を見極めることのできない人間がそれを判断するのですから、
混乱や争いが起こります。エデンの園を追放された人間の悲劇です。
 約束を破り、罪を犯したアダムとエバは、神が近づいてきた時に隠れました。
その時、神は「どこにいるのか」と呼びかけられます。神は、二人のしたことを
すべてご存知だったでしょう。神は、それを知って、言葉を失ったのでは
ありません。「どこにいるのか。わたしの前に出てきなさい。」悔い改めを
求めるようにして呼びかけます。
 聖書には、神の「どこにいるのか」との呼びかけが満ち溢れています。
罪ゆえに、身を隠すしかできなくなった人に呼びかけるのが聖書の神です。
裁くためというよりも、破れてしまった神との関係を回復するためにです。
エデンの園から追放された出来事は、「失楽園」と言われます。人間が、
罪ゆえに、楽園での生活を失いました。しかし、神からすれば、
大切な人間を手元から失った悲しい出来事です。神は、人を失ったままで
諦めることはできません。失ったものを探します。主イエスは、「見失った
羊のたとえ」(ルカ15章)によって、神の御心を示してくださいました。
主イエスの十字架によって、神との深い信頼関係に戻る道も、
もう開かれています。