「公然と話す」09.03.08
 ヨハネ 18:15〜27
 
主イエスは、捕らえられた後の裁判の時も、実に堂々と、大胆に、
自由にしておられます。
 聖書は、主イエスの弟子のペトロが大きな失敗をしたようすを描きます。
彼は、三度主イエスを知らないと言って主イエスを否認してしまいます。
 彼は、主イエスに従おうと、大祭司に屋敷の庭にまで忍び込むのです。
決して不信仰でも臆病でもありません。ところが、大祭司の庭に入る時に、
門番から主イエスの弟子だと指摘され、それを否認しました。彼は一生懸命に
主イエスに従おうとしていました。そのためには、知らない振りをすることも
やむをえない事だと考えたのでしょう。しかし、主イエスを否認したことに変わりは
ありません。私たちも、一生懸命に信仰的な行動をしながら、やむをえないとして、
主イエスを脇の方へ追いやっていることがあります。行動に心を奪われて、
神と人を愛する態度が見失われていることがあります。ペテロには、
私たちの姿があります。

 2回目の否認は、人々から問い詰められた時でした。大勢対一人という状況で、
主イエスの弟子であることをごまかしました。クリスチャンの少ない日本社会の中で、
しばしば直面する状況です。日曜礼拝の重視や、物事に対する信仰的判断が、
なかなか理解されないことがあります。そこで、信仰のごまかしがおこります。

 3回目は、ペトロが傷つけた相手からの詰問でした。ペトロは、身の危険を感じて
主イエスを否認したのでしょう。殉教するほどの信仰もありますが、身の危険を感じた
時に信仰を隠す弱さも、よく分かることです。

 いずれの姿も、私たちと無縁ではありません。しかし、聖書はこの否認する弱さを描く
場面の真ん中に、堂々とした主イエスがいらっしゃると迫って来ます。
頼りない姿をさらす
ペトロの間に割って入るようにして、主イエスが真ん中におられるのです。そのペトロを
両脇に抱える主イエスのお姿を思い描くことができます。この主イエスに抱えられているから、
ペトロのような弱さを持つ私たちも、安心できるのです。