「あなたがたは神の神殿なのです」09.02.15
コリント一 3:10〜17
キリスト教会は、主イエスを土台として立っています。土台である主イエスに
支えられているからこそ、立ち、存在しています。教会に連なり、教会の一部分
である私たち一人一人も、土台である主イエスによって支えられて立ち、
存在しています。土台となる主イエスは、十字架につけられた主イエスです(2:2)。
神を愛し、神に従い抜いていかれた主イエスのお姿を知らされています。
隣人を愛し、罪人や異邦人を受け入れていった主イエスのお姿を知らされています。
私たちは、自分がこの世の歩みを進めていく際には、そのような主イエスの
お姿を模範とし、主イエスの背中を見つめながら、主に従う自分の歩み方を
整えていきます。ただし、クリスチャンの存在の根底を支えているのは、
十字架の主イエスであることを見失ってはなりません。人は、神さまに従いきれない
罪を抱えています。自分が気づいている罪だけでなく、気づいていないたくさんの
罪があります。それは、神の御子に死んでいただかなければならないほどの
大きな罪です。しかし、私たちは、主イエスの十字架の死によって、それら一切が
赦されたことを信じています。そして、主イエスの十字架によって罪を赦し、
私たちを迎え入れようとしてくださる神さまの恵みに、身を委ねています。
罪赦された恵みの中で、新しい命に生きるのが私たちです。十字架の赦し
から始まって、主イエスの御足の後を辿る歩みが始まります。
主イエスを模範とする私たちの歩みは、どのような形を残していくでしょうか。
かの日(終末)に、神さまから評価されるか、消え去ってしまうかは、今は分かりません。
ただし、たとえ消え去るものしか残せなかったとしても、恐れることはありません。
「その人は救われる」と言われます(15節)。失敗を拭い去ってくださる十字架の
主イエスが私たちの土台だからです。この主イエスが土台となっていてくださる以上、
救いは揺らぎません。私たちは審きを恐れるのでなく、十字架への信頼の中で
歩みを進めるのです。